後藤晃男先生のご逝去 |
後藤先生は、「バットマン」という愛称で、生徒から呼ばれていた。
それは、スパルタ指導で、ミスを犯した選手をバットで叩く、ときには殴るという「愛のムチ」で、技術も精神も上達していった。「愛のムチ」が許されていた時代であった。
今なら、すぐにPTAの親が飛んできて「教育委員会に訴えてやる!」といった事態になりかねないが、当時はそういう「しごき」はスポーツ部では、当たり前だった。
ある面では、後藤先生から「愛のムチ」を受けることに、感謝をし、頑張るといったモチベーションに変えていたと弟から聞いていた。
大曲中学校野球部OBで、後藤先生を囲む会「バットマンの会」がある。
後藤先生が、大曲中学校野球部監督だった昭和40年代から昭和50年代前半は、輝かしい成績を残した「野球部全盛時代」だった。その教え子たちが、卒業しても、先生を慕い、成人してから一緒に杯を傾ける。そしてあの当時の思い出を語り合うといった素敵な会だ。
先生は、相当数の教え子の結婚式に招待され、スピーチされている。
僕の弟の東京での結婚式にも参列され、恩師として心温まるスピーチをしていただいた。本人もご満悦だったに違いない。厳しくとも、生徒には愛されていた。そして、永遠の師として仰がれていた、そして愛されていた。
昨日、弟に電話で連絡したが、絶句していた。彼は、1年秋よりレギュラーに抜擢され、ショート、ピッチャーを務め、2年時には、全県準優勝、東北大会でも準優勝している。その時の優勝チームは、本荘南の工藤幹夫(元日本ハム)であった。3年時には、ピッチャーとして全県大会まで進み、準決勝で優勝した五城目で破れたが、一生忘れられないだろう青春のよき思い出を後藤先生と一緒に刻み込んだと思う。
僕らの中学生時代、強烈なインパクトがあり、「バットマン」と呼ばれ、恐れられ厳しい指導で有名だった後藤晃男先生のご逝去。先生のあの熱血的な生前のお姿を偲び、心よりご冥福お祈りいたします。