カネトク創業75周年記念、創業者小西徳次郎生誕100周年記念事業発表! |
おかげ様で、今年で創業75周年を迎える。つまり、3/4世紀の節目となる。
また、創業者である僕の祖父小西徳次郎の生誕100周年にあたる年となる。祖父の誕生日は、1909年5月21日である。(※小西徳次郎1909~1985)
さらに、現社長小西安太郎(父)の喜寿(6月20日)、そして母との結婚50周年(金婚)という目出度き記念日が重なる。
さらに、カネトク酒市場移転オープン1周年、オーストリーワイン大使任命1周年をちょうど、6月に迎える。
まさに、アニバーサリーイヤーなのである。本当に、お客様の皆様の支え、お取引先様のご援助、スタッフのがんばり、そして友人・知人の励ましなどのおかげで、なんとか75年生き延びてきたように思う。本当に弊社を取り巻く皆々様に、最大の感謝を申し上げたい。
創業者小西徳次郎の高き志のように、会社は成長してはいないが、相当な紆余曲折を繰り返しながら、なんとか生かされているのが、現実だ。大手流通業や大手卸業の進出で、志半ばで撤退した事業も数多く、一般の方々は、「衰退」した会社と見ていられることも、承知の上、生き残り策を様々構築してきた。
小西徳次郎生誕100周年の年、3/4世紀の歴史を刻む。小西徳次郎は、妻のテツエとともに、大曲町寺町に構える「小西音吉商店」(塩、雑貨、金物小売、卸業)から、若干25歳の年に独立し、「かねとく商店」として起業する(旧八嶋木材のところ・踏み切りの隣)。小西徳次郎は、商才に長けたバイタリティあふれる男だった。雑貨、金物業からスタートしたが、戦時中は、「お国の役に立ちたい」と軍と交渉し、兵器の製造工場を請け負ったりもした。
いわゆる軍需で、資産を増やた。また、商売も「人の喜ぶことをしよう!」とトラックを戦後いち早く購入し、お取引先に早く届けるといったアイデアマンでもあった。小西徳次郎は、初代の秋田県トラック協会会長長でもあった。ハイカラ的センスもあった野望家でもあった。
戦後、蓄えたお金で、大曲駅前に広大な土地を購入する。そして、土屋館120番地(今の大曲中通町10-5)に、3階建ての「カネトク商店」を建てる。この頃から、雑貨、金物のほか洋品なども扱うようになる。僕は、この地で生を受ける。
そして、1964年には、鹿島建設と組み、鉄筋4階建ての「カネトクデパート」を開業する。この年より、食品部門にも進出する。さらに、1969年には、面積を2倍に拡大し、5階建ての県南初の大型デパートとして、その地位を固めていった。この頃、タカヤナギ、ヤマサと「御三家」と称された栄光の時代だった。僕が小学校の頃、祖父は夜遅くまで、書斎で設計図を書いたり、構想書を作ったりで、いつもがんばっているなあと感心していたものだ。尊敬する祖父でもあり、自慢の祖父でもあった。
1970年代は、タカヤナギが、食品スーパーチェーンとして伸ばしていった時期でもある。
当店は、雑貨部門が、カネトク卸総合センター株式会社として佐野町へ新店舗を構え、独立。金物部門は、若竹町へカネトク硝子金物有限会社(のちのカネックス)として独立していった。こちらの専門性の強い両部門は、父が担当した。
小売部門は、郊外型へと出店を重ね、デパート本店とスーパー6店舗(横手、湯沢、太田、丸子町、栄町、中通町)となった。1980年代前半が、当店のピークだったと思う。グループ社員は、500人近くまでなり、売上もグループ合計で、120億を超えていた。しかし、ヤマサが中通から駅前に移転し、県南最大の百貨店「JC」
を1980年代前半にオープンさせると、さらに状況は一変する。タカヤナギ本店も大改装し、競争が激化していく。横手にはジャスコがオープンする。
負債も雪だるまのように増えていったのも、この頃だろう。1982、3年ごろから経営の歯車が狂い出す。有利子負債が足かせとなっていく。そして、小西徳次郎が肝臓疾患で倒れると、歯止めが利かなくなり、撤退や財産処分といった「負のスパイラル」が待っていた。僕は、1980年代後半に東京から呼び出される。
赤字の店舗を閉鎖や撤退といった荒療治。そして、1994年デパート部門からの撤退、土地売却。この時期、「カネトク身売り」と地元新聞にも大きく書かれた屈辱のときだった。僕は、その苦境のさなか、結婚する。
2000年代に入っても、不況の波と「負の遺産」が圧迫し、やむ得ずカネックス解散、スーパー部門からの完全撤退、さらには卸部門からの撤退と生き残りをかけて勇気ある決断をしてきたと思う。その結果、事業は大幅に縮小したが、生き残ることはできた。
その結果、すべての資産を失う。しかし、自分等が勝てる「土俵」の整備は、着々と撤退しながらも、作ってきた。そして何事もめげずに前向きに取り組んできた自負が僕にはある。三代目としての意地である。
1998年にJWA認定ソムリエ、1999年に日本ソムリエ協会認定ワインアドバイザー資格とフランス食品振興会認定コンセイエを取得する。2000年にSSI認定利き酒師、さらには2003年に上級資格のシニアワインアドバイザーを取得。その年より、ワインの全国選手権やコンテストに挑戦し、自分磨きに力を注いでいった。2003年の全国大会では、6位。2005年の第6回全国ワインアドバイザー選手権では、ファイナリストに。
さらに2008年オーストリーワイン大使選抜コンクールでは、最高賞のゴールドアワードを受賞し、オーストリーワイン大使に任命された。いずれも、仕事にはプラスになっており、早朝の時間を利用し、勉強をつみ、猛烈にブラッシュアップしていった。その結果、日本ソムリエ協会の秋田地区長にも抜擢されることになる。
2005年「さくらワイン」をプロデュースしデビュー。2006年には、「森の完熟ぶどうジュース」プロデュース。2007年「小公子ワイン」を新発売。いわゆる卸から買って売る商売ではなく、自らがプロデュースし、生産者や製造者と一緒になって「理想のおいしい商品」を作っていく作業に、撤退のさなかに必死になって取り組んでいたのだ。「さくらワイン」は、発売5年目で、当初の250%を越える12、500本へと成長する。そして、「小公子ワイン」は、幻のワイン化し、2年続けて1週間で完売といった商品として大人気を誇る。さらに、今年2009年は、フランスの国際大会で、さくらワインが採用され、さらなる評価を首都圏よりいただく。ワインの世界では、秋田県では突出していくとの目標があり、まだまだ夢の途中である。
また、当店の得意な「ハナビライブラリー」事業もお土産やカレンダーなど柱となる数字を残していった。もう完全に「好きこそ物の上手なれ」の世界だ。好きな花火に関しても、極めることで、ビジネス分野にも応用していった。2008年「火薬豆」大ブレイク!する。また、デパート時代の外商部のカネトクファンのお客様からも、今でも熱く支持をいただいている。
こうした生き残り策の実践の繰り返しの中から、自分が勝てる「土俵」を見出せたものと信じている。
僕等は、零細企業で、対等に大手や体力のある企業には、真っ向勝負したら、勝てるはずがないのだ。自分等が勝てる「土俵」のみで生きていく。そのため、会社の企業理念を今の会社レベルのモノにし、目標を掲げた。
僕が掲げた企業理念とは、「しあわせ感の創出」である。しあわせ感が創出できるモノづくりやその提供の仕方や、そのモノがつくられていくプロセスをすべて情報公開し、購入し味わっていただく。その結果「おいしい」という最高の「しあわせ感」のある言葉を引き出せるように、僕等もブラッシュアップし、感性や能力をアップしていく努力をし続けていくことにある。なにより、お客様が、「おいしかった」とか「いいものアプローチしてくれたね」といわれるよう、気を引き締めていきたい。そして、モノだけでなくコトを売り込めるよう、「違う」アプローチを図っていく。そのことを、2009年の「アニバーサリー年」に、誓いたいと思う。
商人としての所信表明でもある。これは、僕の祖父小西徳次郎に対して、孫として三代目としての誓いの言葉でもある。
さて、本題のその記念事業とは?あまりにも、長くなったので明日のブログで発表したい!すみませんね。期待させて。
今日は、僕の弟の誕生日でもある。大阪でウイルス大丈夫か?