村上春樹「1Q84」を読み終えて(その2) |
少し風邪気味のようだ。僕が風邪の症状が出たのは、5年ぶりくらいか。気の緩みだろうか?それとも「疲れ」か?
予定通り、点滴を約1時間半。テルモ製「ソルデム3Å」いわば、栄養剤的溶液だ。ぐっすりと眠れ、点滴後なぜか体調が戻ったような気がした。池田先生の点滴は、僕にとって魔力のように効く。いわば、「疲れ」を取り除く儀式みたいなものだった。
あさひ薬局で、薬を処方していただき、車のラジオをつけたら、聴きなれた声。辻クンが27日の「土屋舘わいわい広場」を熱くPRをしていた。大いに盛り上げてほしい。
その後、流れた曲が忌野清志郎の「OH!RADIO」。元気が湧いてくるようだった。
さて、本題に戻りたい。
村上春樹の長編作品では、初の三人称の語りである。青豆と天吾の男女二人が主人公であり、BOOK1,BOOK2のそれぞれ第24章、計48章を奇数章を青豆、偶数章を天吾とそれぞれ交互にストーリーが展開されていく。この技法も村上春樹にとっては異例でもあるが、それぞれが村上流の「僕」の語りに近く、青豆と天吾の世界に引き込まれていく上手さが、この小説の真骨頂だ。
この小説は、モラビア(現チェコ東部)出身の作曲家レオン・ヤナーチェックの名曲である管弦楽曲「シンフォニエッタ」がタクシーのFMラジオから流れるシーンから始まる。この曲は、この小説のテーマともなるべきもので、僕は読みながら頭の中で記憶されるヤナーチェックの「シンフォニエッタ」が流れていた。青豆の章ばかりではなく、天吾にとってもこの曲は、忘れえぬ青春の思い出の曲でもあったのだ。村上春樹は、活字だけではなく、音楽やその借景までも連想させ、その世界に引きずり込んでいく。
村上春樹は、BOOK1の368ページで、この小説の展開方法を明かすかのように、「バッハの『平均律クラヴィーア曲集』第1巻と第2巻」と天吾に語らせている。この曲集は、12音階すべてを均等に使って、長調と短調でそれぞれに前奏曲とフーガが作られている。全部で24曲。第1巻と第2巻をあわせて48曲。完全なサイクルがそこに形成されている。と書かれている。彼のイメージは、バッハの「平均律クラヴィーア曲集」を青豆と天吾のフツーではないリアリズムな題材を、この時代(1984年)の世相や社会的な出来事を立体的に表現した小説なのだ。
青豆は、スポーツジムに勤める30歳の独身女性であるとともに、数人の男をこの世から消し去る(この小説では、あの世に移すと表現されているが)殺人者の顔を持つ。天吾は、30歳の予備校の数学教師であるが、小説家志望で文学の世界にも浸かっている。そして編集者小松の誘いに乗って、謎の少女「ふかえり」の小説に手を加え、見事な文章に蘇らせる裏作業に加担する。主人公のふたりが、「陰」の世界の顔を持つ。
だから非日常的でフツーではないシチュエーションであるのだが、あのオウム事件や阪神大地震、そして9・11のテロ事件でNYのシンボルだったツインタワーが、フィクション映画の1シーンのように崩壊する。もはや、フツーではない、「違う世界」が存在するのではと思えるように、あの事件以降考えれるようになった。
村上春樹は、こうした世相や時代の空気をたくみに読んでいる。「二つの世界」があってもいいという構想だ。
だから「二つの月」が浮かぶ世界、超現実的な「リトルピープル」の存在、さらには「空気さなぎ」を別世界のものとして登場させる。リアリズムの世界観としてだ。
この物語では、青豆と天吾は、千葉の市川の小学校の同級生だったということだ。ほとんど口は利いたことがない間柄ではあるが、10歳のときのあの出来事を忘れられないでいる。青豆が同級生から理科の時間にいじめられているのを、かばったことに起因する。その後、青豆は二人きりになった教室で、天吾の手を強く握り締める。お互いその行為が忘れられない。その10歳の出来事を離れ離れになった30歳の男女が互いを捜し求めていく。
オウムを題材した「さきがけ」の存在、その教祖の娘「ふかえり」、そしてその教祖(小説ではリーダーと呼んでいるが)を青豆が例のアイスピックで、同意の上殺害する。こうした展開を通して、お互いの存在、接点が近づいていく。青豆は、殺害後、高円寺のマンションに潜伏する。すぐ近くのアパートには、天吾がふかえりと一緒にいる。この小説では、最後までお互いの存在を確認はするが、合えずじまいでストーリーは終結する。
首都高、タクシー、非常階段の設定でこのストーリーは、始まる。そして青豆の最後の章も、もう一度あの時と同じ格好をして、颯爽とフェイ・ダナウェイのようにキメ、タクシーで首都高に乗り、あの時と同じ場所でタクシーを降りる。そして非常階段を降りようとするが、その非常階段がない。彼女は、教祖(リーダー)と約束をした命の引き換えとして、持参のヘックラー&コッホ製の銃の引き金を引いたところで終わる。
その時間、天吾は、意識を失った父の最期を見届けに千葉の海岸沿いの養老ホームにいた。そして暗闇の中で、「空気さなぎ」があらわれ、その中から眠った青豆を見つける。
こうして、月が二つ見える世界の終わりを告げ、この物語は終わる。
随分考えながら、読み進める章もあり、BOOK2は、時間を要した。村上春樹の文章も軽やかで多面的なおもしろさを伝えてくれたが、「客観的言語」(誰が読んでもコミュニケート可能な言語)と「私的言語」(言語で説明のつかない言語)を混ぜ合わせながら、進めていった新しい小説と理解されるものと評論されていくと思う。
僕は、この小説は、ここで終わってはいないと思う。青豆も小説の中では、明確には死んでいない。村上春樹は、どちらかといえばハッピーエンドな小説家ではないが、多くの謎や世界観や多くの考えること(例えば原理主義についてや宗教観について)を残して、この小説は、閉じた。これには、続きがある。続きを書く要素をたくさん残して終了した。僕は、20年後の世界「2004」つまり青豆と天吾について、村上春樹に書いてほしいと願う。